Essays

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 いうまでもなく、武満徹の音楽の中心に位置する源泉には自立した確たる創造性を具えているのだが、その音楽表現の余白に滾る避けがたい価値について、かれほど繊細に、また同時に厳しく凝望した作曲家を、ほかに見出だすことはできまい。

 武満の青春時代は、惨たらしい戦争と死の危険が常に付いてまわっていた。かくのごとくして、混沌の渦中にあった日本から西洋音楽を激しく渇求し、翻って日本文化の本質を相対化させた往来のプロセスから、音楽文化の差異・関係を直交に結いあわせた紐のように協同と対峙とが干渉しあう、肥沃な大地を培えた。

 楽譜に留まらずその著書からも、音が聴こえるような、音を誘い出すような「沸騰する交渉」に、...
2019.06.20 17:02:44 - コメント
方角に引き延ばされる

湿原の木道におかれたベンチのうえで、鈍くかがやく鉄鋼のように仰向けになっていたのは、眼をさましたばかりのわたしに違いなかった。
身体はすこぶる冷えきっているのに、鳥肌も、悴みも、震えもなく、透きとおった青の単色に眼差しをむけて、直線をこしらえる煙のような、起床。

わたしは、いつもの格好─白のマオカラー・シャツに暗めのテーラード・ジャケットをあわせ、アイヴォリーの色をしたスラックスをつけ、茶色のタッセル・ローファーを履いている─をしていた。ベンチから立ちあがり、衣服のしわを調える。

わたしの前後には木道がまっすぐにのびていて、左右は湿原と雪山にかこまれていた。
前者(木道)をx軸、後者(湿原)をy軸と...
2018.12.01 06:48:51 - コメント


展覧会の終刻を聴き、すべての搬出作業を終えた夜、絶望的なまでに積層したケーブルの束を前にその出展者は、胃洗浄後の患者のように空虚な、私そのものでありました。あらゆる指針の準拠は、揺れる風鈴のごとく宙づりにされている。黒い海の黒い錨のように、あるいは二度と日の目を拝むことのできない基礎杭のもっとも底に座るように、私はすべての事柄から遠ざかっているような気がした。



そうおもって、まもなく海のはるか上空に私は移動する。浮遊しているのではなく、崖の上にいる。「おせんころがし」は今年の元旦に行ったからよく覚えていたのだが、夏は至る所で屈強な雑草や薮が生命力の誇示にいそしんでいて、その姿貌を異にしていた。東...
2018.10.17 20:54:43 - コメント



ある朝、上野悠河がなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一台のレコードプレーヤーに変っているのを発見した。彼は鎧のように堅いキャビネットを天井に向けて、正しく横たわっていた。頭をすこし持ち上げると、正確に33と1/3rpmの速度で回転するターンテーブルが見える。中心のとんがっているところにかかっているスタビライザーはいまにもずり落ちそうになっていた。「Marantz」の文字が自分が眼の前にぴっかりと光っていた。ふだんの着飾らないファッションにくらべて、大袈裟なくらい仰々しい鉄板にそれは大きく刻まれていた。



仮にぼくが「レコードプレーヤー」として、過去のある地点で回転を続けていたら...

2018.09.16 15:20:20 - コメント

ぼくが蜂さんと蜂さんのお家を破壊することに躊躇している間にも、六角形の部屋は次々と成長し、入居者を受け入れ続ける。そこにはあたらしい命が宿されているのかもしれない。


このアパートの家主は女王様。しもべたちは彼女のためにアパートを増築し、食糧を運搬し、共同生活をなしている。蜂によっては家族をもつ者もいて、生物学的に一種類の蜂でも、若い蜂から老いた蜂、働き盛りの蜂から籠り気味の蜂まで、実にさまざまな蜂がテリトリーを形成していた。彼らの作る六角形は必然的なかたちであって、意図や認識はそこにはない。ぼくは彼らに自分のものさしを当てはめることはできるけれど、蜂のものさしたるを確かめることはできない。カラス...
2018.08.06 21:00:56 - コメント