死 と 不 在 の あ と に
展覧会の終刻を聴き、すべての搬出作業を終えた夜、絶望的なまでに積層したケーブルの束を前にその出展者は、胃洗浄後の患者のように空虚な、私そのものでありました。あらゆる指針の準拠は、揺れる風鈴のごとく宙づりにされている。黒い海の黒い錨のように、あるいは二度と日の目を拝むことのできない基礎杭のもっとも底に座るように、私はすべての事柄から遠ざかっているような気がした。
そうおもって、まもなく海のはるか上空に私は移動する。浮遊しているのではなく、崖の上にいる。「おせんころがし」は今年の元旦に行ったからよく覚えていたのだが、夏は至る所で屈強な雑草や薮が生命力の誇示にいそしんでいて、その姿貌を異にしていた。東の空が白けてくると、彼は私が裸足でいることを教え、右隣に茶色の革靴が、左隣に記憶に新しい「倒れた自転車」が配置される。「おせんころがしトンネル」を急ぐ早朝の陽光をよそに、私は崖にひとりでいる。行方を眩ます、黒い海の黒い錨。
眼前に臨む海の時間はまた、轍のある暗い森を匂わせ、時同じくして、私の手に万年筆と紙が用意された。まず私は、紙の右下に私の名前を書き、それを靴のなかにおさめると、胸ポケットから最後の両切りピースを取りだし、ライターで火をつけて喫った。レイモンド・ローウィの鳥は飛翔することなく崖をころがる。
やがて一秒が二秒、四秒となり、太平洋の波は漸次的に遅くなり、ほぼ停止するに至る。たいして私は一秒を一秒として世界に提出する。ロラン・バルトふうにいえば、これは、なにかに「突き刺さる」ことを象徴する。すぐに・・・私の周囲ではすべての知を達観し、すべての賞を授り、すべての愛を身にした。襟元で誰かが話しかける。私はそれを理解できない。言葉に載せられる吐息の重さを感覚できない。終止符の裏側でもたれ掛かったままである。
私の知る限り、「荒野」を現実に備える場所は近くにはないとおもう。したがって、この例の自転車の魔術的なことは、フレームの三角形の内にそうした「荒野」を確認できるからに違いないのだ。フレーム内世界(このように表現する)では、こんにちでは珍しい建設中のスカイスクレイパーや、未分化の哲学、人間の不完全な営為も拝められる。例の自転車と同じたぐいの自転車すらも。そうしたものたちに私は不謹慎な新鮮さを覚える。
フレーム内世界は、魔術を媒介したメタファーによって象られた幻想であり、アナロジカルな象徴の錯覚である。私は現実に眼を向けて、完成された無気力の神を前にひとりでいることを改めて思い知った。けっして沈黙を破らずに、また黄金にしてしまわないように、私はこの孤独を手に包みながらわかちあうものを希求した。
かつて私は、ある一区画を徹底的に、完膚なきまでの更地にした。街自体に自己破壊させればこちらは苦労しない、私は'こて'を持ったまでだ。とにかく、様々な理由でここは現実にして「荒野」になった。さいきんの建物にデリート・ボタンがついていたとは思いもよらなかったのだが。
私はそうした、形而上の鉄球で破壊されたビルディングを胸に引っ掛けながら、孤独のみなしごたちをリヤカーに載せて、森の轍を標に再出発する。その間1.25日、予想よりかなり早いが、悪くはない。ここは毒虫に変身する主人公は居ない。世界は死と不在を普遍的なものと見なし、過ぎし創世記のあとに、静謐の庭は、はげしく開拓される。
2018 / 10 / 5 ポートフォリオ掲載