Direction-ological Ridge
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湿原の木道におかれたベンチのうえで、 鈍くかがやく鉄鋼のように仰向けになっていたのは、 眼をさましたばかりのわたしに違いなかった。
身体はすこぶる冷えきっているのに、鳥肌も、悴みも、 震えもなく、透きとおった青の単色に眼差しをむけて、 直線をこしらえる煙のような、起床。
わたしは、いつもの格好─白のマオカラー・ シャツに暗めのテーラード・ジャケットをあわせ、 アイヴォリーの色をしたスラックスをつけ、茶色のタッセル・ ローファーを履いている─をしていた。ベンチから立ちあがり、 衣服のしわを調える。
わたしの前後には木道がまっすぐにのびていて、 左右は湿原と雪山にかこまれていた。
前者(木道)をx軸、後者(湿原)をy軸とし、 さいしょの仰向け状態の視線をz軸と仮定しよう。 わたしはx軸の正の方向に腹をむけ、負の方向に背をむけている。 右側からはかすかな朝焼けをともなう太陽がお見えで、 これをy軸の正の方向とし、順光の左側を負の方向とする。 従ってわたしはいま、北の方角を向いている。
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景色は、あるいはモニターで制御されたヴァーチャル・ スペースなのかもしれない。そのばあい、この“部屋”はジェームズ・タレル的空間の、虚偽の窓たちの錯覚装置である。 はたまた、第四の軸・時間をくわえて、 まったく同じ服装のまったく同じわたしが、 別の時間にスリップできるものなのかもしれない。
なぜ景色を否定せねばならないのか、と問うた。それはすでに、 ここが湿原ではなくなっていたからなのである。
それぞれの平面軸上に、あらゆるものが配置されていた。 四方向のオブジェクトは、 それぞれ固有の性質でもって集合しており、 相互に物理的な干渉をきたさぬように設定されている。
N (x≧0, y=0) ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ミシェル・ フーコーなどを読み、 夜に思弁的アイドルやバンドのライヴにゆくもの。
S (x<0, y=0) クリスマスやヴァレンタインやなにがし記念日などに強い意識をお く、べっとりしたもの。
W (x=0, y<0) 「偶像」をテーマに、 信仰の側面と不信仰の側面とを内含する両極端なアイデンティティ をもって個別に主張・対立するもの。
E (x=0, y≧0) おなじみわたしの大好物である、古い自転車と、 それに携わるもの。
と、みなせようか。明確な象徴を内に秘めているようにもおもえる。 これらの中間方位にはまさしく中間的な性質を帯びているので、 説明は割愛させていただく。
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いま、わたしは雨となって山頂にふり注ぎ、 分水嶺を境に四方向にわかれて、 三角木馬のように引きちぎられてゆく感覚にある。 水を隔てる境界は、平らな地形のほうが、 半永久的な滴下をしておそろしい。 どれかひとつの流域にまとまって雨を降らせたらば、 わたしはひとつのままに川を流れてゆけるのに、 尾根をわかれた水はそれぞれにとおくはなれた海へ注がれ、 水蒸気となってふたたび三角点を俯瞰するまでに、 孤独の生涯をめいめい送らねばならなかった。
進む水と、逃げる水。陽炎のように、 わたしはそこに届くことがない。水は暗渠にもぐり、 太陽をも喪った。何処へゆくのか、報われるのか。闇はふかまり、 ときに眼をかくす。晩秋、ひとつの遅咲き桜が、また、へし折られた。
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ワイプ・アウトされた世界の純白な天井をみつめ、 一本の点滴を腕につながれた病人は、 眼をさましたばかりのだれかに違いなかった。
3秒前にみた大量の血と、あらゆる液体の精神暴力的な混合に、 虚ろで無音の眼差しをむけて、 ショーケースに封印されてしまったような、起床。
純白の闇のなかで、
「たすけほしい」
と、
云った。
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